ミーム

 僕らを突き動かすモノは何なのだろう。毎日繰り返される朝、まだ横になっていたいという本能に逆らって体を布団から引き剥がして、義務的に向かう職場。誰かがしなければいけないことを次々と処理をしていく。溜まった仕事が消化されていくことにゲーム的な快感もあるけど、それは決してゼロにはならなくて、新しい仕事が積まれていく。そして気づくと日が暮れていて、朝と比べて差し引きプラスの書類を尻目に帰路につくのだ。家に帰って体を休め、ココロを休めて明日の仕事に備えていく。
 そんな変わらない毎日が繰り返される。そして、月日は確実に進んでいく。顔には皺が増えていく。
 でも、たとえ僕らが老いても、社会の動的平衡は保たれ続ける。僕らは動的平衡を保つ部分の一つでしかない。生命にとっての蛋白で明日には別の蛋白にすり替わっている。変わらない世界、変わらない毎日。変わっていく僕ら、変わっていく命。
 所詮、一つの代替可能な部品にすぎない僕らは、それでも一つ一つ意思を持って動いていて、それぞれに人生があって、それぞれにとっては人生は世界そのものだ。僕らは死ねば意識は消えて世界は消滅する。だというのに今日も誰かの職場に向かう。
 僕らは何に突き動かされているんだろう。何を夢見て、ドコへ向かっているんだろう。立ち止まって考える余裕もなく、秒針は止まらず、カレンダーは捲られ続ける。わずかでも確実に動脈は線維化し、テロメアは短縮する。
 原動力。チカラ。エネルギー。それは、きっと神様が与えているんだろう。人類はずっと神様を夢に見てきた。無宗教の現代人であろうとも形は変えても普遍で不変なモノを信じるのは変わらないのだ。人智を超えた究極の何か、それはAIかもしれないし、カレーかもしれないし、統一理論かもしれないし、生命の原理かもしれない。それを現代人も求めているんだ。
 それでも人一人がそんな根源に近づくのは難しい。数千年の歴史の中で究極の何かを得られた人は一握りだろう。このどこまでも平凡な我々が、砂漠の中の砂の一粒が宇宙の夢を見るのは虚しい。
 生きるのに充足した我々は、ただそういう真の究極の存在に憧れて日々を暮らしていっている。僕らにできることは、自分が例え無意味に消え行くとしても、ミームを遺伝させた、この社会がいつか辿り着くことを祈ることしかできないのだろう。そして明日の朝も社会を継続させようと布団から体を引き剥がすのだ。