ハンチバックと地続きな「我々」。

障がい者と健常者は生物的に連続的だ。そして、社会は障がい者だろうと健常者だろうと生きていくために必要であるが、また、逆に社会がそれぞれを隔ててもいる。

重度障がい者であるハンチバックの主人公は、弱者の代弁者を気取る読書文化のマチズモ性を断罪し、ネット文化に応じたコタツ記事を書き、SNSできわどい発言を繰り返す。そのおどろおどろしい昏い感情は逆説的に共感性を得る。自然体な語り手によって繰り返される生々しい描写は、弱くて守らなくてはならないもの、などという実際の障がい者と離れて暮らす人々がもつ障がい者のパターン化されたイメージを、どろどろと溶かしていく。

障がい者と一口にいっても、そこには濃淡、明暗、色調がある。遺伝子疾患は遺伝子に刻まれた情報の違いのために引き起こされるというのは一つの事実ではある。ハンチバックの主人公もまたミオチュブラー・ミオパチーという先天性疾患を抱えている。しかしそれはあくまで筋の形成に関わる遺伝子であり、そのために健常者のように歩いたり話したりできないのであり、思考は非常にクリアである。遺伝子疾患では、どの遺伝子に問題があり、どの臓器が侵されるか、それによって当然様々な表現がでるが、社会はそれを障碍者とひとくくりにする(やむをえないことではあるが)。ハンチバックの主人公が持つ、その、堕胎希望などの、歪んだ表現や欲望は環境がそうさせただけであり、脳そのものには問題がないことはその思考の過程が証明している。

遺伝子疾患というと、遺伝子に「異常」があると考えてしまう。しかし、遺伝子なんていうものはただのATCGの羅列に過ぎず、その置き換えは日常茶飯事的に起きている。そもそも同じ遺伝子を持っている人間はおらず、それが顔や性格を少しずつ変えているだけにすぎない。ひらたく言えば、遺伝子の違いは、ただのその人における特性にすぎない。それが目の色を変えるか、疾患を引き起こすかというだけだ。たしかに遺伝子変異のために、人工呼吸器が必要になったり、会話ができなかったりするかもしれない。障がい者は進化的に淘汰される存在であるという人がいるかもしれない。しかし、健常者とよばれる人だってエアコンなしでもはや生活できない。もっといえばほとんどの人類が現在狩猟採集をせずに、スーパーマーケットで買い物をしている。それは何が違うのだろうか。我々は地続きだ。