自分の中の仕事、仕事の中の自分

最近、後輩に「何で大学に残ろうとしているのか、教授でも目指しているのか」と聞かれた。もちろん教授なんか目指してやいない、でも元気な間は頑張りたい、と答えたがいまいち理解されなかった。

学生時代、サークルの追いコンで教授が「年を取るにつれ、家族や仕事の中でポジションや責任が増し、自分の人生の中で自分という存在が徐々に小さくなっていく」と言っていた。当時自分の人生に自分しか存在していなかった自分には、その言葉は共感できなかったが、10年が経って、徐々に言葉の重みを感じるようになった。現在、30代に入り、確かに家族と仕事が生活の中心となり、日々の忙しさに追われ、自分自身と向き合う時間が減っている。しかし、逆説的に考えると、仕事こそが自分を表現する手段かもしれない。

現代社会では、仕事を単に時間を支払い金銭を得る手段として捉える傾向にあるが、我々はそれ以上の価値を仕事に求めるべきではなかろうか。それはやりがい搾取だ、と批判されるかもしれない。過去の価値観に戻ろうとしているわけではない。でも、時間と引き換えに金銭を得て、その行きつく先には何があるのだろうか。その労働している時間はただの意味のない消費なのだろうか。厭世的な価値観に陥りたくはない。

大学に留まることで得られるのは、単なる給与明細上の数字以上のものだ。研究資金の獲得や高価な試薬、先端機器の使用など、学術的なリソースを活用することができる。これは、他の高給の職場に勤めることとは比べものにならないほどの経済的なメリットともいえる。

研究が社会全体に与える影響がある。人類の知識の拡大に貢献することが私たちの根本的な目的であり、これを達成するためには、日々の業務に熱心に取り組むべきだ。アカポスを得ることは目的ではなく、科学を進め、人類を向上させる手段である。このように、仕事を通じて自己を表現し、充実した人生を送ることが可能になる。