永井均「これがニーチェだ」冒頭の大江健三郎批判、ソクラテスについて。

大江健三郎は下記の文章を朝日新聞に投稿した。

テレビの討論番組で、どうして人を殺してはいけないのかと若者が問いかけ、同席していた知識人たちは直接、問いには答えなかった。私はむしろ、この質問に問題があると思う。まともな子どもなら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。なぜなら、性格の良し悪しとか、頭の鋭さとかは無関係に、子どもは幼いなりに固有の誇りを持っているから。(略) 人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観にさからう無意味な行為で、誇りのある人間のすることじゃないと子どもは思っているだろう。こういう言葉こそ使わないにしても。

これに対して、永井均は「これがニーチェだ」の冒頭、なぜ人を殺してはいけないのか、の章で大江健三郎を痛烈に批判する。

大江はここで、なぜ悪いことをしてはいけないかという問いを立てることは悪いことだと主張している。だからよい人はそういう問いを立てないのだ、と。だが、じつはこれは答えにならない。なぜなら、まさにそういう種類の答えに対する不満こそが、このような問いを立てさせる当のものであるからだ。「どうして人を殺してはいけないのか」というのは、本来、素朴で単純な問いだと私は思う。ところが、ある種の人は、それをすなおに受けとることができないらしいのだ。問い自体に何か不穏なものを感じるようだ。何の気なしにそういう疑問を感じた者は、答える者のその態度と口ぶりのうちに、何か不穏なものを感じとってしまう。力で問いをねじ伏せようとするある種の威圧感を感じとり、何か秘密があるなと直観する。問い自体は、素直で素朴な疑問だったのに、その答えに<嘘>を感じ取ったとたんに、問い自体が不穏なものに変じる。問いに不穏さを感じとる大江健三郎のような「聖人」たちの心の動揺が、問い自体を不穏なものに変質させる。

この後の話で、ニーチェを引用しつつ、なぜ人を殺してはいけないのかという問いは、道徳や倫理という概念そのものを問いており、それらの道徳や倫理を基盤にして発される答えは疑われるべきであると述べている。そして、なぜ人を殺してはいけないのかという問いには道徳や倫理を超える答えが存在しないことを指摘する。そして、ニーチェの思想の根幹には、非道徳、反社会的な人間愛があり、人を殺すことで自分を肯定できるならば人を殺さなくてはいけない、というようなことを述べている。

ニーチェの思想や、その解釈について非常に興味深いことが書かれているがそれについては割愛する。ここで重要なのは、永井均大江健三郎も、なぜ人を殺してはいけないのかという問いに対して、答えがないという点で一致していることである。しかし、大江健三郎は、問いに答えがないということを知ってか知らずか、問い自体を否定した。永井均による大江健三郎批判は、なぜ人を殺してはいけないのかというテーマ自体とは関係がなく、問いを受け入れられるかどうか、ということが問題なのである。問いを否定する行為に対して、強く批判しているのである。

そして私も問いを否定する行為に対する批判には強く共感する。しかし、一方でそれは仕方がないことかもしれないとも、思う。なぜなら、永井均は哲学者であり、大江健三郎は作家である、からである。問い、というものの重要性を知っているか、知らないのか、学問の世界を生きたことがあるか、ないのか、という決定的な違いがあるのである。偉い、有識者とされる人でも、学問の世界を生きたことのない人がいる。それは無限の奥底を覗いて苦しんだことがあるか、ということだ。

当然、誰しも勉強をしたことはあるはずだ。それは、特に高校まで、マジョリティーになるための勉強である。大多数の人が知っていることを知ること、社会の常識を知ること、それが勉強である。大学の学部では専門的な知識を学習するかもしれない。しかし、それはやはり、勉強である。それらは綺麗に整理整頓されていて、まるで完結しているようにさえ見える。しかし世界の知において、それは見やすい範囲の氷山の一角にすぎない。その海の下には、荒々しく削れて抉れていて、触ったらケガをするような、深く暗く冷たい底の見えない知の領域がある。通常の方法ではいくら潜っても果てはなく、果てが存在するのかもわからない。大学を卒業することで出会う学問とはそういうものである。学問は、これまで世界に存在しなかった知を新しく生み出す、ということだ、世界を広げるということだ。すでに知られていることを知ることは勉強でしかない。

学問とは、問い、そして答えを考える営みだ。

学問と向き合うと、基本的に問いには答えが存在しない、自分がそれを解くまでは。また、さらに重要なのは、問いを立てることである。何かを疑い、新しい問いを見つけることが難しく、何より重要である。問いに答えがないからと言って問いを立てることを許さないなどという態度は、学問の否定である。わからないということをまず認めなければ、世界は広がることはない。しかし、学問を行ったことがない人にはそれを理解するのは難しいように思う。なぜなら、勉強しかしたことのない人は、問題があり、答えがあるものしか知らない。答えがない問題というのは、不完全で間違った問題だからである。しかし、リアルワールドは不完全で、歪であり、分からないものだらけである。学問は疑うものであり、信じるという行為は非常に非学問的な行為である。自分が信じる道徳や誇りというものを疑うことができず、非道徳な問いを立てることを許さないような人は理解できないだろうと思う。

つまり、永井均の批判はニーチェの思想に基づいたものではなく、どちらかというとソクラテス的な批判であるかもしれない。私は大江健三郎の著作も読んだこともなければ、永井均の著作も読み切ったことはない。なぜ人を殺してはいけないのか、わからない。だが、自分が知らないことが無数にあるということは知っている。