生きる意味を問うということ

死について、子どもの頃から考えている方だと思っている。

保育園のころだったか、カレンダーを見ながら、今日という日が二度と戻らないことに気づいた。そのとき同時に、百年後、少なくとも千年後には、いまここにいる人々は自分を含めて誰一人存在していないことにも気づいて衝撃を受けた。そしてさらに、自分が存在しない世界とは、自分にとっては二度と知覚されない世界であり、たとえ客観的に世界が存続していたとしても、自分がいなくなるならば、それは自分にとっては世界が消滅することだ、と理解した。

つまり、死は恐怖や悲しみというより、自己の消失および世界の消失という根源的な問題になる。単に生命活動が止まることではなく、知覚し経験する主体、そのものが失われることであって、しかもそれは自分なのである。

この根源的な衝撃に対して、中学生のころには一つの自然な応答として、「死ぬときに後悔しないように生きたい」と考えるようになった。これはある意味では前向きな考え方であり、一方で素朴な考え方だ。死を避けることができない以上、そのときに自らの人生を振り返って悔いが残らないように生きるべきだという発想である。

しかし、その後私は、この考え方には単純化が含まれていることに気づいた。それは人生を一つの物語として捉え、その結末として死を位置づけすぎているのではないかという疑問である。人は死の直前に本当に自らの人生を振り返り、それを一つの完成した物語として評価できるのだろうか。むしろ、死の瞬間には苦痛があって、意識ももうろうとしていて、そのときには後悔どころではないかもしれない。そう考えると、生きる意味を「死ぬときの納得」に過度に依存させることは危険だと思った。

その反動として、高校生のころには、「結局、いまここにある自分しかいないのだから、今という瞬間を楽しむことが重要なのではないか」と考えるようになった。これは深く考えるのを避け、刹那的な快楽を優先する、と人間的に後退したようにも見えるかもしれない。しかし、実際には、人生全体を物語化し、最終的評価から現在を規定しようとする考え方への反省による立場だった。死という終点から逆算するのではなく、実際に存在する現在を重視するという意味で、自分にとってはより真実に感じた。

しかし、この考え方にも限界があった。人間は単に現在だけに存在しているわけではない。記憶を持ち、未来を予期し、時間の持続の中で自己を形成していく存在である。「今を楽しむ」という態度だけでは、生きるということを十分に捉えてはいない。刹那の充足だけでは、継続する毎日、そして何十年後の自分(それは途中で病気や事故でいないかもしれないが、無事に生きているかもしれない)を支えきれないのである。

大学生のころになると、私は生きる意味を単一の普遍的なものとして求めること自体に疑問を持つようになった。生きる意味は、その時々の人生のフェーズや置かれた状況によって変化するのであって、万人に共通する一つの正解が存在するわけではないのではないかと考えた。若いころには恋愛が重要になるかもしれないし、別の時期には仕事が中心になるかもしれない。さらに別の時期には家庭や子どもが最も大きな意味を持つこともあるだろう。そうであるならば、「生きる意味」がたった一つ存在すると考えてそれを問うこと自体間違っていることになる。

もし普遍的で単一の生きる意味が存在するなら、誰かの生きる意味と誰かの生きる意味に差があるのだろうか。生まれてすぐに死んだ人生は無意味であり、大きな社会的地位を得た人生が有意味なのだろうか?もちろんそんなわけはない。生きる意味とは、外的な成功や結果によって決まるのではなく、各人で異なる。しかも同じ人の中でも、その局面ごとに異なる、内的に定義されていく相対的なものだと考えるようになった。

そして現在、私は生きる意味を問うこととは、実際には「自分が今何を大事にしたいのか」を問い直すことなのだと考えている。つまり、生きる意味として、宇宙論的な正解を探すのではない。死という根源的問題に対して最終的な解答を与えることは、おそらく命ある動物には誰にもできない。しかし、それでもなお人は生きていかなければならず、そのとき現実に問われるのは、自分にとって何が重要であり、何に時間と労力を与え、どのような価値を優先して生きるのかということである。生きる意味とは、抽象的に発見されるものというより、自分が重要だとみなすものを選び取り、その優先順位に従って生を構成していく過程の中で具体化される主体的なものなのである。

このように振り返ると、私の生きる意味への問いは、少しずつ修正を重ねてきた過程だったと言える。幼少期に直面した自己の消失という普遍的で避けがたい死の衝撃に対して、「後悔しない生」を考え、物語化への反動として「今」を重視し、意味の相対性へと進んだ。そして現在では、生きる意味とは自分が今何を大事にしたいかを問い直すことだという地点に至っている。死に対する問題は誰も解決できない。しかし、それを直視したうえで、自分が今どう生きたいかを考えることこそが、現在の私にとっての生きる意味なのである。

暇と退屈の倫理学

2025年が始まり、早々に風邪を引いた。コロナでもインフルでもないのに40℃くらいの熱が出て、でも正直熱だけでそこまで苦しい感じがない変な風邪だった。苦しくもないのに38℃からなかなか下がらないので仕事にも行けず、せっかくなので読書をした。

『暇と退屈の倫理学』は退屈とは何か、ヒトはいつから何が原因で退屈しているのか、暇と退屈の違いは何か、退屈と気晴らしが現代の消費社会でどんな問題があるのか、というのを人類史、および哲学者たちの洞察を踏まえて、まとめ上げられた本である。

私は退屈というものについて、今までそれほど注意を払ってこなかった。世界、幸福、真実、人生、死、などと比べて、退屈はあまりにもドラマチックさがない。退屈は退屈であって、ただの空白、意味のないものと思っていて、退屈について深く考えるということがそれほど重要な問題とは思えなかったからだ。しかし、ここまで様々な哲学者たちが退屈について語っていたとは意外だった。

著者は人類史の観点から退屈を問い直す。人間の退屈が始まったのは1万年前に遊動生活から定住生活に生活様式を変化させたことに端を発するのだ、と。新しい環境への適応という感覚への刺激が、定住生活によって乏しくなったことが退屈をもたらしたのだと。確かに、進化医学的な観点で考えても、人間は長い進化の中で現在の遺伝子情報を持っているが、定住生活はたかだか1万年程度の歴史の浅い強烈な環境の変化である。もともとの遊動生活というのが人間の報酬系として最適化されたものであったとすれば、それがうまく働くなり退屈を感じるのも当然かもしれない。

この本は東大や京大でよく売れているという。現代の大学生が実感として共感するのは、消費社会と退屈についての洞察だろう。余暇の使い方や欲しいもの、好きなことはもはや消費者の中にはなく、産業によってつくられた製品を広告によって楽しいものはこれであると教えてもらう。消費者には主体性はもはやなく広告によって与えられるだけなのだ。Youtuberが楽しそうに食べているグミを買ってみる、とか、推し活グッズをいくらでも買ってしまうとか、有名人が言っているジムに自分もいくとか。そうでなくともYoutubeやXでどんどん流れてくる情報を主体性なく見続けてしまうとか。商品だとか情報は確かに過多な世の中になっていて、自分が欲しいものが何なのかを選ぶというのは難しい。モノではなく、コトの消費の時代では、情報の消費になって、それは永遠に満足することはない。なぜならごはんはいつか腹いっぱいになるけど情報には限りがないから。退屈の気晴らしに、広告産業が付け入って、でもそこに限りがないから終わらない。

この本はそういった退屈をどうすればいいか、結論を一応書いているけれど重要なのは結論ではないと思う。なぜなら退屈は人類史に関わるあまりにも根が深い問題で、そもそも哲学とは答えを出すようなものでないからだ。そういった問題提起、いままでぼんやりとしていた退屈に明確な輪郭を与えてくれた点で面白い本だった。

自分の中の仕事、仕事の中の自分

最近、後輩に「何で大学に残ろうとしているのか、教授でも目指しているのか」と聞かれた。もちろん教授なんか目指してやいない、でも元気な間は頑張りたい、と答えたがいまいち理解されなかった。

学生時代、サークルの追いコンで教授が「年を取るにつれ、家族や仕事の中でポジションや責任が増し、自分の人生の中で自分という存在が徐々に小さくなっていく」と言っていた。当時自分の人生に自分しか存在していなかった自分には、その言葉は共感できなかったが、10年が経って、徐々に言葉の重みを感じるようになった。現在、30代に入り、確かに家族と仕事が生活の中心となり、日々の忙しさに追われ、自分自身と向き合う時間が減っている。しかし、逆説的に考えると、仕事こそが自分を表現する手段かもしれない。

現代社会では、仕事を単に時間を支払い金銭を得る手段として捉える傾向にあるが、我々はそれ以上の価値を仕事に求めるべきではなかろうか。それはやりがい搾取だ、と批判されるかもしれない。過去の価値観に戻ろうとしているわけではない。でも、時間と引き換えに金銭を得て、その行きつく先には何があるのだろうか。その労働している時間はただの意味のない消費なのだろうか。厭世的な価値観に陥りたくはない。

大学に留まることで得られるのは、単なる給与明細上の数字以上のものだ。研究資金の獲得や高価な試薬、先端機器の使用など、学術的なリソースを活用することができる。これは、他の高給の職場に勤めることとは比べものにならないほどの経済的なメリットともいえる。

研究が社会全体に与える影響がある。人類の知識の拡大に貢献することが私たちの根本的な目的であり、これを達成するためには、日々の業務に熱心に取り組むべきだ。アカポスを得ることは目的ではなく、科学を進め、人類を向上させる手段である。このように、仕事を通じて自己を表現し、充実した人生を送ることが可能になる。

永井均「これがニーチェだ」冒頭の大江健三郎批判、ソクラテスについて。

大江健三郎は下記の文章を朝日新聞に投稿した。

テレビの討論番組で、どうして人を殺してはいけないのかと若者が問いかけ、同席していた知識人たちは直接、問いには答えなかった。私はむしろ、この質問に問題があると思う。まともな子どもなら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。なぜなら、性格の良し悪しとか、頭の鋭さとかは無関係に、子どもは幼いなりに固有の誇りを持っているから。(略) 人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観にさからう無意味な行為で、誇りのある人間のすることじゃないと子どもは思っているだろう。こういう言葉こそ使わないにしても。

これに対して、永井均は「これがニーチェだ」の冒頭、なぜ人を殺してはいけないのか、の章で大江健三郎を痛烈に批判する。

大江はここで、なぜ悪いことをしてはいけないかという問いを立てることは悪いことだと主張している。だからよい人はそういう問いを立てないのだ、と。だが、じつはこれは答えにならない。なぜなら、まさにそういう種類の答えに対する不満こそが、このような問いを立てさせる当のものであるからだ。「どうして人を殺してはいけないのか」というのは、本来、素朴で単純な問いだと私は思う。ところが、ある種の人は、それをすなおに受けとることができないらしいのだ。問い自体に何か不穏なものを感じるようだ。何の気なしにそういう疑問を感じた者は、答える者のその態度と口ぶりのうちに、何か不穏なものを感じとってしまう。力で問いをねじ伏せようとするある種の威圧感を感じとり、何か秘密があるなと直観する。問い自体は、素直で素朴な疑問だったのに、その答えに<嘘>を感じ取ったとたんに、問い自体が不穏なものに変じる。問いに不穏さを感じとる大江健三郎のような「聖人」たちの心の動揺が、問い自体を不穏なものに変質させる。

この後の話で、ニーチェを引用しつつ、なぜ人を殺してはいけないのかという問いは、道徳や倫理という概念そのものを問いており、それらの道徳や倫理を基盤にして発される答えは疑われるべきであると述べている。そして、なぜ人を殺してはいけないのかという問いには道徳や倫理を超える答えが存在しないことを指摘する。そして、ニーチェの思想の根幹には、非道徳、反社会的な人間愛があり、人を殺すことで自分を肯定できるならば人を殺さなくてはいけない、というようなことを述べている。

ニーチェの思想や、その解釈について非常に興味深いことが書かれているがそれについては割愛する。ここで重要なのは、永井均大江健三郎も、なぜ人を殺してはいけないのかという問いに対して、答えがないという点で一致していることである。しかし、大江健三郎は、問いに答えがないということを知ってか知らずか、問い自体を否定した。永井均による大江健三郎批判は、なぜ人を殺してはいけないのかというテーマ自体とは関係がなく、問いを受け入れられるかどうか、ということが問題なのである。問いを否定する行為に対して、強く批判しているのである。

そして私も問いを否定する行為に対する批判には強く共感する。しかし、一方でそれは仕方がないことかもしれないとも、思う。なぜなら、永井均は哲学者であり、大江健三郎は作家である、からである。問い、というものの重要性を知っているか、知らないのか、学問の世界を生きたことがあるか、ないのか、という決定的な違いがあるのである。偉い、有識者とされる人でも、学問の世界を生きたことのない人がいる。それは無限の奥底を覗いて苦しんだことがあるか、ということだ。

当然、誰しも勉強をしたことはあるはずだ。それは、特に高校まで、マジョリティーになるための勉強である。大多数の人が知っていることを知ること、社会の常識を知ること、それが勉強である。大学の学部では専門的な知識を学習するかもしれない。しかし、それはやはり、勉強である。それらは綺麗に整理整頓されていて、まるで完結しているようにさえ見える。しかし世界の知において、それは見やすい範囲の氷山の一角にすぎない。その海の下には、荒々しく削れて抉れていて、触ったらケガをするような、深く暗く冷たい底の見えない知の領域がある。通常の方法ではいくら潜っても果てはなく、果てが存在するのかもわからない。大学を卒業することで出会う学問とはそういうものである。学問は、これまで世界に存在しなかった知を新しく生み出す、ということだ、世界を広げるということだ。すでに知られていることを知ることは勉強でしかない。

学問とは、問い、そして答えを考える営みだ。

学問と向き合うと、基本的に問いには答えが存在しない、自分がそれを解くまでは。また、さらに重要なのは、問いを立てることである。何かを疑い、新しい問いを見つけることが難しく、何より重要である。問いに答えがないからと言って問いを立てることを許さないなどという態度は、学問の否定である。わからないということをまず認めなければ、世界は広がることはない。しかし、学問を行ったことがない人にはそれを理解するのは難しいように思う。なぜなら、勉強しかしたことのない人は、問題があり、答えがあるものしか知らない。答えがない問題というのは、不完全で間違った問題だからである。しかし、リアルワールドは不完全で、歪であり、分からないものだらけである。学問は疑うものであり、信じるという行為は非常に非学問的な行為である。自分が信じる道徳や誇りというものを疑うことができず、非道徳な問いを立てることを許さないような人は理解できないだろうと思う。

つまり、永井均の批判はニーチェの思想に基づいたものではなく、どちらかというとソクラテス的な批判であるかもしれない。私は大江健三郎の著作も読んだこともなければ、永井均の著作も読み切ったことはない。なぜ人を殺してはいけないのか、わからない。だが、自分が知らないことが無数にあるということは知っている。

ハンチバックと地続きな「我々」。

障がい者と健常者は生物的に連続的だ。そして、社会は障がい者だろうと健常者だろうと生きていくために必要であるが、また、逆に社会がそれぞれを隔ててもいる。

重度障がい者であるハンチバックの主人公は、弱者の代弁者を気取る読書文化のマチズモ性を断罪し、ネット文化に応じたコタツ記事を書き、SNSできわどい発言を繰り返す。そのおどろおどろしい昏い感情は逆説的に共感性を得る。自然体な語り手によって繰り返される生々しい描写は、弱くて守らなくてはならないもの、などという実際の障がい者と離れて暮らす人々がもつ障がい者のパターン化されたイメージを、どろどろと溶かしていく。

障がい者と一口にいっても、そこには濃淡、明暗、色調がある。遺伝子疾患は遺伝子に刻まれた情報の違いのために引き起こされるというのは一つの事実ではある。ハンチバックの主人公もまたミオチュブラー・ミオパチーという先天性疾患を抱えている。しかしそれはあくまで筋の形成に関わる遺伝子であり、そのために健常者のように歩いたり話したりできないのであり、思考は非常にクリアである。遺伝子疾患では、どの遺伝子に問題があり、どの臓器が侵されるか、それによって当然様々な表現がでるが、社会はそれを障碍者とひとくくりにする(やむをえないことではあるが)。ハンチバックの主人公が持つ、その、堕胎希望などの、歪んだ表現や欲望は環境がそうさせただけであり、脳そのものには問題がないことはその思考の過程が証明している。

遺伝子疾患というと、遺伝子に「異常」があると考えてしまう。しかし、遺伝子なんていうものはただのATCGの羅列に過ぎず、その置き換えは日常茶飯事的に起きている。そもそも同じ遺伝子を持っている人間はおらず、それが顔や性格を少しずつ変えているだけにすぎない。ひらたく言えば、遺伝子の違いは、ただのその人における特性にすぎない。それが目の色を変えるか、疾患を引き起こすかというだけだ。たしかに遺伝子変異のために、人工呼吸器が必要になったり、会話ができなかったりするかもしれない。障がい者は進化的に淘汰される存在であるという人がいるかもしれない。しかし、健常者とよばれる人だってエアコンなしでもはや生活できない。もっといえばほとんどの人類が現在狩猟採集をせずに、スーパーマーケットで買い物をしている。それは何が違うのだろうか。我々は地続きだ。

人の命

大学院生やらしてもらって、勿論研究のためにほとんどの時間使ってるけど、少なくとも自分の時間はある。というか全く完全に時間に余裕がなければ思索に耽ったり、他分野の余計なものを見たりとかできないから、激務も激務で全く余裕ないような感じではない。カテの道に進んだ先輩は忙しすぎて妻と仲が悪くて、数年関係をもってないといっていた。夜中に家に帰って、積んである食器を洗うし、休みの日に子どものためにご飯も作るけど、子どもは作ったご飯を食わないそうだ。他人の家のことに口出すのなんか、絶対良くない無責任なことなのに、子どもはお父さんの料理を食べたほうがいいのかお母さんの顔をみて迷ってるんじゃないですか?仕事に逃げちゃだめですよ、なんて軽はずみに言ってしまった。自分の意図としては、家庭は人間にとって最も重要なものだと思ってて、だって仕事は代わりがいるけど家庭では代わりはいないわけだし、先輩は家事をしてるといってるけどそれは本当に思いやりからしてる家事じゃないんじゃないんだろうか。家事は思いやりをベースにしてやるべきで、パートナーに対する攻撃の手段にしてはならない。子どものためには、パートナーと仲良くすることがまずは一番だと思う。でも、あまりにも忙しすぎるときにはそんなふうに考える余裕がなくなっちゃう。患者を人質に取られて、自己犠牲を当然とする価値観を植え付けられたら、良心の名のもとに家庭を崩壊させても超専門的な労働を搾取されることになる。医療崩壊を防ぐために家庭を崩壊させなきゃいけないんなら、そんな医療崩壊したほうがいいと思うし、絶対後続はついていかないし、継続できない。命の重さは分かるが、終わりがない。自分の子どもが病気になったら何が何でも助けてほしいと思ってしまうが、そういうことを医師個人の責任に直結させるのは間違ってて、システムとして責任を負うべきだと思う。地方医療を守るためにジリ貧になるなら医療資源を集約化すべきだと思うがこれは視野が狭いのだろうか。

何か見た

「医学部に入らずに東大に入れば、有名企業で高収入を得ながら、夜勤や過酷なコールで睡眠を妨げられることもなかったんだけど」という旨のツイートを見ました。

それに対して、「本気で医者をやっている人なら、そんな甘い考えは持たないだろう」といったツイートや、「東大に行っても有名企業に入っても年収数千万はごく一部の人だけ」といったツイート、さらには「有名企業に入っても靴を舐めるようなつまらない仕事ばかりだ」といったツイートが目立ちました。

私の考えでは、睡眠不足と過剰なストレスが本当の問題だと思います。

人の生死に関わる仕事は、普通の人にとっては非常にストレスのかかるものであり、さらに患者を人質にさまざまな仕事が押し付けられることもストレスです。さらに、若くて知識や経験が不足している場合、対応すること自体もストレスです。しかし、日々愚痴を言いながらもその仕事を続けていくうちに、感覚が麻痺していき、良い意味で慣れてくることでしょう。そして、知識や経験が蓄積され、冷静に考える余裕も生まれるのです。

だから後輩に対して甘くないとマウントを取るような態度は、後続の人たちをつぶすだけだと思います。まあ、人数が多く、競争が激しい科や場所ならば、それも理解できるでしょうけどね。

愚痴は同僚や家族とか、君のつらさや環境を知る限定された人に言えばいいのに、SNSで全然君のことを知らない、しかも立場の違う人全員に向けて言うから炎上しちゃうんだよね。