映画アイアムアヒーロー

漫画アイアムアヒーローゾンビ映画が好きな僕がこの日を楽しみにしていないわけはありませんでした。映画アイアムアヒーロー、見てきました。

正直最高でした。

これよりネタバレ含みます。(言葉によるネタバレはこの映画を楽しむ上で関係ないですが)

良いゾンビ映画には「ゾンビとの初めての遭遇」「仲間の死」「ラストのカタルシス」の三点が重要だと思っているんですけど、どれも秀逸でした。

それに加えてアイアムアヒーローならではの日常の崩壊の演出、そして派手なカーアクション、目まぐるしく変わる舞台に途中で飽きることなく最後まで面白かったのはすごかったです。風景とか文化とか日本の良さを生かしたゾンビ映画はおそらくこれを超えることはないと思います。グロ描写も海外のやつよりもじめじめしたリアリティがありました。最初から銃でバーンじゃなくて、実際に元人間を壊している感触。ドランク塚地の圧倒的演技。

ラストはゾンビ映画に新しいカタルシスの価値観を生んだ、と個人的に思います。普通は全滅するか、なんとか逃げるか、一気に蹴散らすかして終わるものですが、ちまちま全員撃ち殺して大量の肉片の海ができた様子は圧巻でした。

邦画ならではの主人公描写もよくて、普通の人間がヒーローになっていく姿に泣きそうになりました。みんなの妄想が詰まった映画でした。つまり、退屈な世界が終わり平凡な自分がヒーローになる、という妄想を絶対みんなしてると思うんですけど(僕はしてます)、途中までは世界がひっくり返っても自分は変わらないんだって言ってるんです(正直ここで泣きました)。そしてあのラストですよ。しびれちゃいましたね。

原作を映画にしたらこうなる、というのをちゃんと見せてくれましたね。よかったです。

ただ、有村架純がこの映画に乗り気じゃなさそうで、というか普通の日本映画の演技をしてて記号的な比呂美でしたね。他のキャストはみんなハマってました。

来週も見に行きます!

神経とシナプスの科学 現代脳研究の源流

杉晴夫先生の神経とシナプスの科学 現代脳研究の源流を読んだ。おそらく脳科学というものに多少なりとも興味を持っている人間が手にとるようなタイトルとなっている。改訂版でタイトルが変わったらしい。しかし期待している内容とは違い、むしろ脳科学礼讃に待ったをかけるような内容だった。

基本的な内容は研究史を踏まえて古典的な神経生理学を学べる本だった。単語に関しては初学者にも丁寧に、しかし内容自体は簡単にページをめくれないような濃厚さであった。我が大学の生理学の講義を受けるよりは分かりやすく感じる。それでも買ったのは2か月前で国家試験もあり手は止まっていた。春休みで時間もあるため、ここ1週間で少しずつ読み進めて読み終えられた。

特に電気的二重層や容量性電流の説明は狐に化かされたように感じた当時の講義での解説の隙間を埋めることができ、膜電位の実態を理解することができた。医学部二年生全員に薦めるのは迷うところだが、神経生理学について腑に落ちないところがある人は読んでみてもいいかもしれない。

110回医師国家試験と中島敦

この土日で医師国家試験が終わった。5年間酒やラグビーに興じていた自分を省みて、一念発起して勉強し、なんとかせいぜい平均くらいにはなれたと思う。優秀とは言えないが別段悪い成績ではないだろう。さて、三日目のIブロックを解いている途中で、はて今解いているこの試験はいったい何の試験だったろうという気持ちが浮かんだ。これを解き終われば医者になるという試験だ。今まで不安ではあったがこの手ごたえならまあ大丈夫そうだ。そんなことを思って突然僕は医者になるのかと愕然とした。医学部に入学したときは医学部に入学したという気持ちでしかなかったが今回の試験は違う。医者になる試験だ。実感が全くなかった。医者になって何がしたいのか、そんなことも決まっていなかった。もちろん今までだって考えてはきたがいつか決めればいいという気持ちがあった。しかし現にもうここまで来てしまった。

 帰りのバスで隣になった同級生と話した。彼は学部の中でもどこか浮いているような存在で、僕も今までそんなに話したことがなかった。趣味や部活のことを話した。彼は読書家だということを知り、太宰治中島敦が好きだと聞き「中島敦はいいよねえ」と相槌を打つと「中島敦いいと思うの?でもどうせ山月記しか読んだことはないんでしょう」と言われた。むきになって「いや短編集みたいなの買って読んだ」と答えた。正直昔に読んで細かい内容は覚えていなかったが、ボロボロになるまで読んでいたのですこししどろもどろではあったが応答し、中島敦カフカの影響を受けているなどと少しばかり知識を披露すると彼は興奮した様子で「カフカ中島敦のこと知ってるなんて君なかなかいいねえ。前から話し方とかがグジグジしてそうで僕に少し似てるとは思ってたんだ」と大声で言われ話したことのない奴に心の中を言い当てられてどきりとしたが、恥ずかしいような、しかし少し嬉しいような気がした。

イニシエーションラブ

イニシエーションラブを読みました。国家試験まであと1ヶ月なのに。

時代を考えても恋愛ジャンルだということを考えても、いわゆる○○トリックものに触れたことのない読者を想定して書いてあるってことが重要だ。今、何冊もミステリを読んできた人がこれを読んで、文章が陳腐だとか、ありきたりのトリックだとか、ましてや突然色を知っているオトナぶってこの程度の関係なんて普通でしょとか言い出すのは片腹痛い。どちらにせよ誰もが何かを言いたくなるような本であることは間違いない。だから売れたんだ。僕も例にもれず、やはり嫌いな本になった。

アイアムアヒーロー18集

 アイアムアヒーロー18集が出ました。映画も前情報の限りはいい出来みたいで楽しみです。

 表紙、グリーンのカッコよさ、やばいですね。ついにヘリが飛ぶんでしょうか。この先の展開もワクワクします。

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 表紙は浅田です。浅田のモデル、浅野いにおおやすみプンプンとかデデデデの作者。おやすみプンプンは1巻で「あ、合わない」と思って読むのやめちゃったんですけど、確かに今覚えば「意味深なことつぶやきゃ、勝手に解釈してくれんだろ」みたいな感じだったな。

 さて、ここからはネタバレ注意してください。

 

 18巻は主人公とヒロインが結ばれる話です。花沢健吾流に生々しくぎこちなく恋愛が進んでいきます。今回は二人について考えたいと思います。

 そもそも二人は本当に恋愛感情があるんですかね。これを言ったらおしまいですが、この状況でなければあり得ないでしょう。英雄は比呂美を高校生でかわいかったから、守ったと言っています。一方、比呂美です。序盤では頼りないヒーローとして英雄に信頼は寄せていましたがZQN化前ではそういった感情はなかったと思います。しかし目を覚ますと、英雄と関係を持っている小田さんを含めた三人で行動して、ちょっとした三角関係になりました。小田さんは比呂美にとって大人であり対抗心を感じる母親の象徴でもありました。そんな小田さんを「殺し」、もしかしたら二人が最後の生き残りかもしれないという状況になり、生きる目的を得るため東京に着いたら英雄を好きになっていいか、というのが今までの流れです。

 しかし、今回の巻で英雄は比呂美に現在の生きる理由が欲しいから今好きになってほしいと求めます。対して比呂美は一緒に生きて自分を一人にしない約束を英雄に求めます(この約束はクライマックスに繋がりそうな伏線っぽい・・・)。いざ小屋に入り、高校生の比呂美が告白を必要としたり、王道の恋愛をしたことのない英雄がそれに慣れていなかったりと、めんどくさくて順番が逆ですが、ついに二人は結ばれます。つながった比呂美は英雄を見つめて、初めて直接「好きだよ。」と伝えました。「順番は逆」ですが、比呂美はここでようやく心から英雄を好きになったんじゃないでしょうか。

 

 そんなこんなでセックスをした二人はそれぞれ同じ映像を見ます。箱根編でもありましたがZQNの体内に取り込まれた者は記憶や意識などの精神世界を共有するようですね。そして巨大融合ZQNが現れます、というかすっかりお互いのことで夢中になっていた二人がようやく気づきます。イタリア編で見たように巣となって女王蜂を探しているのか、英雄達を追ってきます。二人乗りでは英雄と比呂美の関係が逆転し、少しずつ英雄に変化が起きているように感じます。そして間一髪で漁船に乗り込み18巻は終わります。

ゆゆ式5話考察

ゆゆ式5話に対して微妙な距離感だの狂った歯車が戻らなかっただのと言っているブログを見たのでちょっと言わせてください。たしかに5話ではゆずこの行動は空回りし続けて、さらには自分の知らない子供のころの唯と縁のエピソードを聞かされてしまいます。そこでゆずこが寂しさを感じているのも分かります。ですが、それを感じているのはゆずこだけで、ゆずこもそれは分かっているんです。唯と縁はこの3人でグループだということを当然だと考えた上で話しています。特に唯はゆずこはああゆう性格だから傷ついてるかもしれないとは考えていません。トラックに轢かれても死ぬとは考えないです。それは冷たいのではなくて、むしろそういうゆずこの性格に尊敬のような感情を抱いているのです。一方縁はゆずこが寂しさを感じていたのにふんわり気づいていたのではないでしょうか。ゆずこが色の違うところまで飛んだらという流れでゆずこと結束を示したり、昨晩のしりとりを思い出したりしていました。さらにはラストで今回のゆずこを救うことになる死ぬときは3人一緒という結論を出したのも縁でした。

ゆずこはどう感じているか。何話かでおかちーが唯と縁が幼馴染ってかんじすると言った言葉におかちーのわき腹をつついたり、まじゃりんこ回で仲良しかよと言ったりとふとした瞬間に疎外感を感じてしまうことがあります。でも唯と縁が3人の中で特別に仲が良いわけではないはずです。唯とゆずこ、縁とゆずこにだってそれぞれ同じくらいの仲の良さがあるはずです。少なくとも唯や縁はそう思ってます。ただそれに幼馴染という名前の付いた言葉があるかどうか、そこに少しでも疎外感を感じてしまうかどうかだと思います。ですが、ゆずこもそれは知っています。だからこそそんな風に浮かんだ気持ちを冗談めかして言ったりできるのです。

歯車が狂ったというよりは浮かんで消えるような微かな心の揺らぎを表現した、といった方があっているんじゃないでしょうか。ともかくこのアニメは素晴らしいと思います。BOXを買いましょう。

野火

戦争で重要なのは兵站だと聞く。補給のない状態では作戦など机上の空論だ。レイテ海戦はひどいありさまだったがレイテ島ではより悲惨だったようだ。

映画野火を見た。そこには戦争があった。リアルな戦争。主人公は敵兵と戦う状況にすらならなかった。ただ優位な者がそうでない者から奪うのみ。人間の命と死は地面に転がっていて、限界状況ではそこに大した価値はなかった。人間性なんてものは衣食住があって初めて生まれるもので、それがないとき人間は動物より幾分マシなだけか、または殺しあう点ではそれ以下だった。そんな状況は最悪で仕方がないけれど人間はそれに慣れてしまう。「猿の肉」を食うことも叫ぶ女を撃つことも、順応によりありえない行為が可能になってしまう。生きる意味を求めて、自分の命に価値があると信じて、毎日を暮らしている高い文明を持った今の僕らは、状況次第でただの消耗品として使い捨てられ、しかもそれに慣れてしまうんだ。しかし、もしかしたら戦争ではそれが際立つだけで今と何も変わってなんていないのかもしれない。人間が人間らしく生きる意味を求めて彷徨うことが状況次第で変わってしまっていいものなのか。

人間が人間を食う。それしか生きる道がないならば自分は食うだろうか。あの状況は決してフィクション、つまり全くあり得ないことなんかではなく今と地続きであるはずだ。僕らはレイテ戦の延長線上にいるってことを理解して生きなければならない。