野火

戦争で重要なのは兵站だと聞く。補給のない状態では作戦など机上の空論だ。レイテ海戦はひどいありさまだったがレイテ島ではより悲惨だったようだ。

映画野火を見た。そこには戦争があった。リアルな戦争。主人公は敵兵と戦う状況にすらならなかった。ただ優位な者がそうでない者から奪うのみ。人間の命と死は地面に転がっていて、限界状況ではそこに大した価値はなかった。人間性なんてものは衣食住があって初めて生まれるもので、それがないとき人間は動物より幾分マシなだけか、または殺しあう点ではそれ以下だった。そんな状況は最悪で仕方がないけれど人間はそれに慣れてしまう。「猿の肉」を食うことも叫ぶ女を撃つことも、順応によりありえない行為が可能になってしまう。生きる意味を求めて、自分の命に価値があると信じて、毎日を暮らしている高い文明を持った今の僕らは、状況次第でただの消耗品として使い捨てられ、しかもそれに慣れてしまうんだ。しかし、もしかしたら戦争ではそれが際立つだけで今と何も変わってなんていないのかもしれない。人間が人間らしく生きる意味を求めて彷徨うことが状況次第で変わってしまっていいものなのか。

人間が人間を食う。それしか生きる道がないならば自分は食うだろうか。あの状況は決してフィクション、つまり全くあり得ないことなんかではなく今と地続きであるはずだ。僕らはレイテ戦の延長線上にいるってことを理解して生きなければならない。