死のメニュー

自分は一体なんなのか

生きる意味ってなんなのか

この世界ってなんなのか

そんなこと考えるのって意味ないことだって分かっている

だってもし完璧で誰もが納得して自分も納得する答えが出たってどうしようもない

例えば仮に生きる意味は「42」だって言われて確かにそうだと思ったからっていつかは死んで塵となるわけだ

答えってのは救ってくれるものだとは限らないわけだ

自分が求めてるのは答えじゃなく救いなんだ

でも宗教を信じるような正直さは今から身に付くものでもない

斜に構えて「この世に意味なんかあるわけもない、僕らは電気信号で動くたんぱく質の塊だ、死ねばインパルスも起きず自分という幻想もただ消えるだけ」とか言っていた人間を救ってくれる宗教なんてあるのか

僕らがただの物理と化学の法則に従う有機的な機械というそのどうしようもない事実から目を逸らさずに宗教は人を救えるのか

ただ、どうしようもないのは救おうが救うまいがいつかは塵に消えるという事実だ

逃げられないことなら受け入れるか受け入れないかという話になってくる

つまり死ぬまでの過程の話だ

死ぬまでの生きている間を死を受け入れて肯定して生きるというのが宗教なのか

しかし残酷なのは死を受け入れても受け入れなくても同様に死ぬということだ

もしかしたら案外みんな死のことで悩んでないのかな

考えても無駄だし

でもじゃあ考えて無駄にならないことってなんだよ

夕飯のメニュー、自分の進路、好きな女の子

死の前には等しく無駄な気がする

逆に死ってのは夕飯のメニューの前には完全に無駄なことだな