カラマーゾフの兄弟

カラマーゾフの大審問官の話を久しぶりに読み返した。

人から自由を奪ってやることで神が与えた自由の苦しみから自由に耐えられない愚かでか弱い人々を解放してやっている、そんな我々を神が裁くことはできるのか、みたいな話だった。

今、この日本では(世界でも?)神を心から信じている人は少数だろうし、実際僕も信じてなどいない。

けれどももちろん人間は生きているんだからどう生きるかという問題は考え続けなくてはいけない。

「人は自由に生きるべきなのか。」

この社会で生きるためには自由を差し出して、どこかに所属し誰かに支配されなくてはならない。

それは金を得て明日を生きるためにだ。

そして、それだけではない。

何かのために自分を犠牲にすることは正直言って快感だ。

誰かから必要とされそれに応えることは「充実」を感じる。人生を有意義に過ごしていると感じる。

そして所属の程度が上がるほど、自由を預ければ預けるほどそれに見合った対価が得られる。

僕はこれは愛に似ていると思う。

人を愛するということも自分の自由をその人のために捧げてやることだし、支配されることだ。

やはり人間は本質的に支配されたいのかもしれない。

一方、自由に生きるということはどうかと言えばまず対価は支払われないか見合っていない。

自分の自由に好きなことをしていてそれで暮らしている人、芸術家や研究者には限られた一部の人以外は見合った報酬を得られていないだろう。

それは何かのために自分を犠牲にしていないからだ。

また、自由は孤独で空しい。

誰からも必要とされないことに耐えられる人は少数の強い人しかいないのだ。

大審問官の言っていたのは確かなのかもしれない。

自由に耐える人は限られた一部の誇り高く強く選ばれた者でしかなく、か弱い人々(僕のような)は社会に自分の人生を差し出し愛を差し出し報酬に金と心の充足を得ることで満足して自分の人生を肯定しながら生きるのだ。

そして自分の心からやりたいことを無視して死んでいく。

それを誰が否定できるんだろうか。