帰り道に徒然に思うこと

高校を卒業して大学に入学して専門を学んで大学を卒業した。もう3年以上も仕事をしてお金をもらっていて、結婚もして娘もいる。もう少し歩けば家族がいて、出迎えてくれる。そんな当然の毎日。ふと、帰り道に足を止めて、周りを見渡してみると、我に返った。ここは一体どこだ。一体自分は何をしているんだ。当然のように、なんでも知っているように振る舞っているけれど、一体この世界の仕組みをどこまで知ってるんだ。空は夕暮れだ。なんで空は赤いのだ。たしか夕になって太陽光の入射角がこう、狭いとその分大気圏が厚くなって波長の短い光は届かず波長の長い光が届くんだったな。よかった、分かったぞ。あれ、雲の動きってどうやって決まっているんだっけ。気圧が低い方へと流れるのだとは思うけど、雲によって動き方が違うのかな。そもそも雲の形ってなんでいろいろあるんだっけ。あれ、この地面はコンクリートでできているけどコンクリートって何だっけ。電柱はなんでこんな形をしているんだっけ。地面に時々見かける丸い円盤はなんなんだ。あの鳥はなんていう鳥なんだっけ。鳥はなんで空を飛べるんだっけ。スマホで調べれば分かるかもしれないけど、何から調べればいい。

今私の願い事が叶うならば、翼がほしいって歌があったな。鳥のように飛びたいって、飛行機もテレビもあるし、そのうちVRも出てくるような世界で、衣食住が揃っている人間を捨てて鳥になりたいとは思わないな。鳥はきっと寒いだろうな。人間よりずっと寿命も短いんだろうな。遅かれ早かれ俺もいつか死ぬ。人間もいつか滅ぶのだろうか。それは確実に滅ぶだろうな。時間が流れる限り、終わりのないものはないのだから。地球や宇宙にも終わりがあるのだから。じゃあどうやって終わるのだろうか。ゆっくり衰退していくのか、戦争でどかんと減るのか、異常気象で終わるのか。想像してみるけれどやっぱり自分が死んだ後のことをイメージできない。

自分が死ぬってなんだろう。なんで恐怖しなきゃならないんだろう。死ぬってつまり、考えられなくなることだ。自分の本質は思考だろう。思考は脳で有み出される。脳は思考を作り出す媒体だ。つまり自分は脳は自分そのものだ。でも脳といっても広い。思考っていったいどこでやっているんだろう。手足が動かなくてもコミュニケーションは取れる。運動性失語になっても思考はあるように思う。感覚性失語になっても思考らしきものや少なくとも感情はあるように思う。つまり、思考は自分の本質だと思うけど、脳は機能ごとに分解できる。つまり自分というのを思考で定義したとしてもそれは分解できる。自分は分解不可能な一つの存在ではない。

そんな風にぼーっとしていたら家の前まで歩いてきていた。